観劇録 -モダンスイマーズ『悲しみよ、消えないでくれ』- _180619
観劇ウィーク第2弾ということで、
6月11日、東京芸術劇場にて観劇してまいりました。
モダンスイマーズ『悲しみよ、消えないでくれ』
お仕事でもお世話になっている方がスタッフとして関わっていることもあること、芸劇でまだ演劇を観たことがなかったこともあって、せっかくの機会と伺わせていただきました。
妻を失った男が、
妻の実家に居候。
分かち合おう、悲しみを。
癒し合おう、悲しみを。
乗り越え合おう、悲しみを。
しかし妻の妹は男を見て思っていた。
「この男は違う。この男は、悲しんでいない」
そこは雪深い山荘ー。
(パンフレットより)
正直、終わった後は放心状態で呆然としていました…。
あまりの「感情」と「感情」のぶつかり合い、脳内が追いつかず処理できず、しばらく(いい意味で)もやもやとしながら帰路についていました。もやもやしながらも、でもなぜか後味はすっきりでした。
序盤から描かれる丁寧な人物描写によって、登場人物の関係性が見えてくる。同じ悲しみを分かち合い、励まし合い、癒し合うことのできる仲間達。しかし、少しずつ、少しずつ仄見えてくる、それぞれが隠し続けてきた関係性と、裏に隠し続けてきた感情。
少しずつ、少しずつそれが露わになっていく。雪深い山荘の中、不安定に保たれていた関係性の、感情の均衡が、ほんの少しのきっかけで音を立てて崩れて行く。隠された真実が次々と明らかになっていくとき、そこに現れるのは、それぞれの悲しみや傷みが飛び交う感情の洪水。一体彼らの感情を言葉で表すことが可能なのかどうかすらわからないほど、複雑で濃い感情が交錯する。
その時、どんな気持ちだったのか?今、どんな気持ちなのか?
あなたの気持ちが、自分の気持ちが、わからない。
「本当に、本当に、本当に、本当に、本当に・・・・僕だけが、悪いんでしょうか?」
全てが明らかになり、物語がフィナーレを迎える時、最後に生まれた「感情」はーーー
カーテンコールを迎えて20秒後くらいに、涙が出てきました。
こんなにも遅れて涙が出てくるような経験は初めてです。
脳内が、完全には処理しきれていなくともやっと最後まで追いついて、ようやく最後の感情を理解した時に、なんという、なんという悲しみと、もどかしさかと。
きっとそこに生まれた「最後の感情」は、決して純粋に湧き上がったなものではなかったと思うのです。当然です。なぜなら、そんな感情を純粋に持てるような真実はそこにはなかったから。
だけど、どんなに残酷な真実が、残酷な悲しみが目の前に訪れたとしても、その悲しみを共に分かち合える、癒し合える、乗り越え合える人がいないということこそが、人間にとって一番の悲しみなのかもしれない。
悲しみを乗り越え、前を向いていかなければならない。分かち合い、癒し合っていかないと、我々人間はとても、生きていくには耐えられないのだなと思います。
しかし、悲しみを乗り越えた先でも、「悲しみを乗り越えてしまった」ことがつまりは、自分の心の浅さなのではないかと、思うこともある。
それでも我々は、悲しみを薄めずに生きていくことはできない。
そういうことでしか生きられないこと自体が、実はとても悲しいことなのかもしれない。
悲しみという感情は、心が辛くなるものであると同時に、消えて欲しくないと願うものでもあるんでしょうね。
うーん、思い出すたびに「複雑な感情の洪水」に溺れそうになりますが、これはこれでクセになるかなと。
観れてよかった、出会えてよかった作品だなと思いました。
本日はここまで!
最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。