コミュニケーションのカタチ -文化とアートと社会に関する思考録- _181217
12月16日 日曜日の銀座です。
用を済ませ、銀座を後にしようとした時に、たまたま見つけてしまいました。
「眠らない手」エルメスのアーティスト・レジデンシー展 | HERMES - エルメス公式サイト
なんじゃこの楽しそうなのは!行くしかないじゃないか!
ただ、今日はいつも以上に行きたいところが詰まっていたので、また今度にしようかなとも思いました。
しかし、「ここで行かなきゃ結局行かなくなる、行かなかったら後悔しそうだ」と思い、予定が押すのを覚悟の上、行くことにしました。
全く縁もゆかりもないと思っていた、HERMESの建物。
アーティスト・レジデンシー展と表記されていることからも、ここでの展示作品は、「アーティスト・イン・レジデンス(AIR)」で作られた作品だということだと思います。
そもそもAIRとはなんぞや?と、聞き馴染みがないという方もいるかもしれません。
アーティスト・イン・レジデンスとは、
招聘されたアーティストが、ある土地に滞在し、作品の制作やリサーチ活動を行なうこと、またそれらの活動を支援する制度を指す。
(アーティスト・イン・レジデンス | 現代美術用語辞典ver.2.0 より一部抜粋)
ということです。簡単に言うと、アーティストがある地域に一定期間滞在して、そこでの地域の空気感や人々の生活の営み、人との交流などからインスピレーションを受け、作品にするというものです。
全国的に少しずつこれらの潮流が広がっており、例えば千葉県松戸市の「PARADISE AIR」や、福岡県糸島市の「Studio Kura」などがあります。
この展覧会の作品は、エルメスの様々な工房にアーティストたちが滞在して制作を行なったものだそう。
金銀細工、皮革、クリスタル、テキスタイルという上質な素材を用いた作品制作に挑んでいます。
キュレーターである、ガエル・シャルボー氏は、
エルメスの工房でのレジデンシー・プログラムに参加したアーティストや職人たちの会話を通して、私は言語を介さないコミュニケーションの重要性に気づいた。工房においては、動作や姿勢こそが、知識や気持ち、感情を伝えるための本質なのだ
と言っています。
職人さんの仕事について観察しているうちに、ある共通点に気づいたそうです。
それは、彼らは手で作業しながらも、頭は別のこと(次の工程や素材の様子など)を思考している、すなわち、手は単なる脳の信号=思考のしもべとなって動いているわけではなく、手そのものが自立しているのだということ。
さらに、例えばクリスタルを扱う工房では、あまりにも大きな音が工房内に響くため、会話ができないことから、コミュニケーションは表情や態度で行われる、ということ。
興味がある方は、この動画を観てみてください。展示会でも流れてましたが、作品を完成させることだけでなく、そこに至るまでのプロセスの中で、多くのアーティストが得た様々な気づきについて記録されていて、とても面白かったです。
ちなみに公式サイトではパンフレットも無料公開されてます。
「眠らない手」エルメスのアーティスト・レジデンシー展 | HERMES - エルメス公式サイト
無料でこれだけのコンテンツ発信できるの、HERMESすごいな…。
(正確には、エルメス財団による取り組みだそうです)
言語を介さないコミュニケーション
さて、この展覧会でわたしが印象に残ったのは、
「言語を介さないコミュニケーションの重要性」ということ。
ここ最近、障害者差別解消法に関する講演会だったり、演劇ワークショップに参加する機会があったのですが、
それらを通して感じたことと、とても共通点があるなと思ったのです。
それは、
私たちは他者とのコミュニケーションツールとして、《言葉》というものにあまりにも依存しすぎているのではないか、ということ。
ここでの《言葉》とは、「文字」という視覚的・聴覚的な記号を指しています。
《言語》とも言い換えられるかもしれません。
「言葉で言わないと伝わらない」と言いますが、人間という生き物は、本当に、言葉でなければ明確な意思疎通ができないのでしょうか。
人間には五感・四肢があります。
「障害がある人」とされているのは、その五感・四肢のいずれかに障害があること、または、知的障害や発達障害といったものを持っている人のことを指しています。
障害者差別解消法の中では、そのような「障害がある人」に対して、不当な差別的取扱いの禁止が述べられています。
ではそもそも、なぜそのような「不当な差別的取扱い」がなされるのでしょうか。
様々な要因があるかと思いますが、僕は、その1つの要因として、
コミュニケーションの機会損失による相互理解不足があると思います。
相互理解ができてないから合理的な配慮ができない、結果としてそれが「不当な差別的取扱い」につながってしまうのではないか、ということです。
では、なぜコミュニケーションの機会損失が起こってしまっているのか。
それは、私たちが日常生活において《言葉》というツールだけで、コミュニケーションのほとんどを行なっているからではないでしょうか?
聴覚障害や視覚障害、知的障害など、言葉というコミュニケーションツールを扱いにくい人にとって、
この「言葉社会」を生きていくということは、想像もつかないほどの大変さがあると思います。
さらに、障害のあるなしに関係なく、言葉を使うことを苦手としている人たちもいます。
その人たちの中にも、この「言葉社会」に、生きづらさを抱えている人たちがいるのではないかと思っています。
私たちは、他者とコミュニケーションを取り続けなければこの社会を生きていくことはできない。
そんな、生きていくために必須である、コミュニケーションのツールに多様性がない、ということに、
なんとなく違和感を覚えてしまったのです。
コミュニケーションのカタチ
外国旅行に行った人ならイメージできるかと思いますが、言葉が通じない時には、必死のボディーランゲージをしたり、絵を描いたりするなどして、なんとか通じたという経験を持っている人は多いはずです。
このことからもわかるように、人間って実は、《言葉》だけではなくて、もっと多様なコミュニケーションツールを潜在的に有しているのではないでしょうか。
コミュニケーションツールとしての《言葉》が、あまりにも利便性に長けているということに気づいてしまったばかりに、他の多様なコミュニケーションツールの可能性を模索することを止めてしまっているような気がしてならないのです。
ただ、言葉以外でどうコミュニケーションできるのか、と問われれば、今の僕にもまだ提唱できるものはありません。
しかし、言葉によらないコミュニケーション(非言語[ノンバーバル]コミュニケーション)に関する研究は様々なところで提唱されているようです。
僕は、その非言語的コミュニケーションの可能性の1つとして、アートがあるのではないかと思っています。
アートを通してお互いに何かを伝え合うことはできる。
共通の言語がなくても、アートを通して自分を表現し、相手の表現からその意思を感じ取れる五感・感性を、本来的にわたしたちは持っているのではないかと思うのです。
こうして《言葉》で書いているこの記事も、もしかしたら絵だったり、音楽だったり、今はまだないような表現方法で、同じようなことを提示することができるのかもしれません。
言葉だけじゃない、ノンバーバルコミュニケーションの可能性についても、アートを通じて発信できるといいなと考えている今日この頃です。
本日はここまで! 最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。