アートの貧困を考える -日本NPO学会 公開シンポジウム-より_180610
本日6月10日、日本NPO学会の公開シンポジウムに行ってまいりました。
30分ほどの短編戯曲作品「タバタバ」を観劇したのち、パネリストの方々による「アート/ソーシャルデザイン/NPO」というテーマにてパネルトークが行われました。
※タバタバの感想も別途ブログで書こうと思っています。本稿では主にパネルトークの内容から得た感想と意見を書きたいと思います(複数に分けるかもしれません)。なお、ところどころ聴き漏れや、発言された方の趣旨と、私の捉え方に若干のずれもあるかもしれません。あらかじめご了承ください。
ここで話にあがったことの1つに「アートの貧困」ということがありました。
例えば演劇を年4本厳選して観にいくと仮定した時、自分が面白いと思うもの、観たいと思う演劇は何かを探すためには、わざわざ劇場に出向いて、探しに行かなければならない。その環境が、アートが身近に溶け込みきれていない環境であるということを表しているのである。
演劇というものは、そのほとんどが劇場という造られたハコの中に出向いて、そこでしか観ることができない。演劇に限らず、本来であればもっと身近なところに溢れていて、創造されているものがアートであり、人々のその生活の中にもっとアートが溶け込んで存在することが正常なのである。ということだと思います。
文化やアートは「高尚なもの」という価値観は、たしかに今もなお根強く残っていることだと感じています。そして現実問題として、一定の経済的負担がかかることは確かにあります。
ただ、その状態が「当たり前」であるということに、私たちは疑問を持たなければならない。
前回の記事でも言ったように、文化やアートは、これからの社会を生きていくために必要となる「人とのつながり(関係資本)」をつくるきっかけとなります。
それだけではなく、他にも、文化やアートの持つ力としてあげられることがあります。
例えば、文化やアートに触れることで、自らの想像力と創造力を高め、自分自身という個性(アイデンティティ)を自覚していくことにつながります。
こういった、文化やアートに触れられる環境の有無で、得られる資本が変わってくるのであれば、なおさら、本来的には文化やアートは、もっと誰の身近にも溢れているものであるべきであり、劇場やホールにわざわざ足を運ばなくても、普段の生活の中で触れることのできるものであるべきなのだと思います。
ーーうまくまだ意見がまとまっていないような感じが見受けられるのですが、あえてまとまっていない感じも、思考録の1つということでご笑覧いただけてたら幸いです…!
今日はここまでにしておきたいと思います。
最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。