わたしと演劇 〜幻の演劇部員〜 -自分録- _181211
珍しく朝からの投稿です。
ただいま、わたしは福島県のいわきに向かっている道中でございます。
本日から2日間、立教大学社会デザイン研究所集中講座に参加してまいります。
今回は、演劇ワークショップを通して、「作品をつくる」ことや、「まちづくり、文化交流」について考えるというもの。
いつもは座学形式のものがほとんどなので、少し緊張の混じった楽しみな気持ちで向かっています。
演劇はもともと好きで、縁もあってここ最近鑑賞する機会が増えたのですが、
実際に身体を動かすのは実に高校1年生以来といったところでしょうか。
わたしと演劇
高校1年生の時、実は少しだけ演劇部に所属していました。
幻の演劇部、と言ったほうがいいのかもしれません。
なぜなら、部員はわたし一人だけだったから。
そもそも演劇「部」自体、高校の公式な部活動としてあったわけではありません。
・高校の面接時に演劇をやってみたいと言ったこと
・たまたま他の学校で演劇指導の実績があった先生がいたこと
この2つが見事に重なって、「じゃあやってみましょう!」とその先生にお誘いを受けて、
入学してすぐの4月、幻の演劇部が誕生したのです。
幻なので、当然演劇部はわたし一人だけでしたが、「一人芝居で卒業までに全道大会(≒県大会)目指すよ!」という先生の熱いパッションのもと、空き教室で放課後毎日、発声練習・ストレッチ・パントマイムを行う日々。
なかなか厳しい練習の日々でしたが、その厳しさは確かに、卒業までに全道大会に行けるんじゃないかと思えるほどのものであったことは確かです。
もし、「3年間続けることができていたならば」ですが…。
今思えば、自分のやりたいことに賛同してくれる協力者がいたこと、やりたいことができる環境であったこと、これはすごく恵まれていたことなんだなと思います。
しかし当時のわたしには、残念ながら、孤軍奮闘できる意志の強さは持ち合わせていなかったのです。
運動部が仲間とトレーニングしている体育館の端っこで、一人で発声練習する毎日。
同じクラスの友達に、「ろみお」とあだ名をつけられ、からかわれているように感じていた毎日。
(あだ名自体は全然イヤではなかったです、むしろそのおかげで打ち解けあえたぐらいだと思ってます。しかし、演劇を一人でやっていることを、からかわれているような気がしていたのです。)
まったくもってアドリブ力がなく、厳しく指導され続けるパントマイム。
放課後のことを考えると、お昼ご飯のお弁当も喉を通らず、半分以上残す日々が続きました。
そんなある日、突如持ち上がった話がありました。
4つの高校の合同による演劇制作。
先生はわたしに確認するまでもなく、「参加できるように話つけてきたから」と伝えてくれました。
なんという作り話のような展開。
ただし、参加が決まった時点で、本番まで1ヶ月もありませんでした。
しかも、劇の一番最初に登場し、一番最初にセリフを発する役を務めることになったのです。
本番は5月の初めでした。
他校の諸先輩方が、12月ころから積み重ねてきた作品です。
そこに、入部1ヶ月も満たない幻の演劇部員が参加するとなったからさあ大変。
ツラいなんて言ってられません。もうやるしかありません。
だけど、今でも覚えてます。あの時の練習風景を。
セリフが入った紙の感触、練習場の床のひんやりした感触、陽射しの入った明るい空間。
久しぶりに、演劇って楽しいと思えていたあの時の気持ちを。
この作品が、わたしにとって最初で最後の、役者としての舞台となりました。
当時の作品は、ありがたいことにDVDとして記録に残っています。
恥ずかしくなりそうなので、まだ観たことはありませんが…。
ちなみにその後は、クラスメイトから猛烈な勧誘を受け、吹奏楽部に入部し、
フルーティストとして舞台に上がり続ける日々を3年間過ごすことになっていきます。
人生の軸に正直になる
当時の自分はなぜ、やりたいことを最後まで貫き続けられなかったのか、と思います。
今考えられるとしたら、それは自ら勝手に作り出していた「周りと違うことへの恥ずかしさ」だったのかもしれません。
周りと違うことをやっている、そんな自分に自信が持てなかった。
でも、周りと違っても自分のやりたいことを貫いてる人はむしろかっこいいし、自分の人生においての軸を持つこと、その軸に正直に生きていくことが本当は大切なことなんだと、今は思います。
当時のわたしは16歳。
25歳になって、まるでその時の「貫ききれなかった」経験をバネにするかのように、
会社の有給を3日連続で取り、今こうして、自分の人生の軸に向き合うために
バスに揺られている、今日この頃です。