思考のキャンバス -文化とアートと社会と自分についての記録-

文化・アートと社会のつながりについての思考録です。また、影響を受けた本・音楽などを取り上げて、自分自身に関する思考録も行います。

観劇録 -タバタバ- _180618

先週1週間(6月10日から16日)は、ありがたいことに3本も演劇を観に行く機会をいただきました。
わたしの中でこれを「観劇ウィーク」と勝手に名付けることにします。


せっかくなので、観劇録ということで、3本それぞれの演劇について、わたしなりに感じたことを中心にざっくばらんに書いていきたいと思います。


早速、観劇ウィーク第1弾の観劇録にいきたいと思います。






6月10日、日本NPO学会公開シンポジウムで上演された「タバタバ」を観劇してきました。
(そもそもこの日の主目的はこの作品を観ることでした)


目の前にある巨大な氷の塊。それをはさんで言葉を交わす姉と弟。

弟はただひたすらにバイク(氷の塊)を磨き、姉はただひたすらに、そんな弟へ「外へ出ろ」「私の恥」と、言葉をぶつける。

他者からの目に敏感な姉、何も気にせず好きなことをして日々を過ごす弟。

交わることのない言葉のやりとりの先に、隠れていた感情が、価値観が見えてくる。



自分と他者との間にも、初めは見えない巨大な氷があって、お互いにその氷を溶かし合うことから、関係づくりは始まるのかなって思います。


だからどんなに一方が溶かそうとしても、もう一方が溶かそうともしない間は、その氷を溶かしきるなんてことは難しいのでしょう。お互いに溶かしあって初めてお互いが見えてくる。


そして、きっと同じ氷でも、形や硬さの違いがあって、いとも簡単に溶かすことができる氷もあれば、お互いがどんなに溶かしあおうとしてもびくともしない氷もある。


氷は美しく透明だから、それがお互いの間に隔たっていることを、つい我々は忘れがちになるのかもしれない。時に「当たり前に届くだろう」と思って使う何気ない言葉も、実はその分厚い氷に遮られ、その言葉は曖昧であるほど届きにくくなっていることに気づいていない。透き通った氷の向こうには相手の顔が見えているから、自分の声が巨大な分厚い氷に遮られ、届いていないなんて思いもしないということがある。


言葉のすれ違い、思い違い、受け手と発し手の間に生まれる齟齬は、こうして生まれるのかもしれない。


我々は忘れてはいけないのでしょう、他人との間には、いつもそこに氷があることを。そしてその氷を磨き続けていくことが、お互いを理解していくことだということを。






こんな感じで、残りの2本の演劇についても、一個人の感想として、思ったことを書いていきたいと思います。


本日はここまで!

最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。