思考のキャンバス -文化とアートと社会と自分についての記録-

文化・アートと社会のつながりについての思考録です。また、影響を受けた本・音楽などを取り上げて、自分自身に関する思考録も行います。

「聴く」ということ、「対話する」ということ - 雑記録_180627-

(※ もう脳内にあるものをほとんどそのまま書き下ろしています。体裁を整えた方が良いのかもしれませんが、読み物でもないかもしれません。あえてこれがいいのかもしれないと思いましたので、このまま書きました。
読んでいただけるなら、読みにくいかもしれませんが、ご了承ください。)


とにかく今の消化しきれていない気持ちというかモチベーションというか、視点というかなんというか。
わからないけれど、この今心になんとなく燃えているものをどうにか言葉にして残しておかないといけないと思い、今こうして思いつくままにキーボードを叩いているわけです。

人の話を「聴く」、価値観が違うことをお互いに理解して受け入れる、人とお茶を飲みながら、腹を割ってお互いの価値観をぶつけあえる関係性を作ること。
これって、やっぱり仕事に限らずやっぱり生きて行く上で必要なことだよなと思うわけです。

正直なところ、いまは目の前の仕事に追われすぎているところはあって、それは言い訳なのかもしれないけど、とにかく先に進めないといけないという時が間違いなくあって。そういう時はとにかく自分の声を発することに必死になってしまう。聴いてる余裕がなくなってしまうことがある。


就活の時の自己分析で、私自身はどちらかといえばディベートの参加者ではなく、ディスカッションのまとめ役(ファシリテート側)が向いていると思っていた。自分の意見を強く発することよりも、色々な意見を聞いて、それをどう1つの形にまとめて行くかを考えるほうが、大変だけど好きだったというのがあったから。

それは中学校の時に生徒会やっていたときからそうだし、高校の吹奏楽でも、大学のゼミやサークルや文連でも、どちらかといえば何か強く発するよりも、聴いて、まとめることに徹する機会が多かったからという風に私自身は認識している。

だけど最近は、その感覚が変わりつつあるような気がしている。とにかく自分の意見を強く持って、上司や先輩とも言い合えるようにしておかないといけないと思っている自分がいる。それができないと、自分が今の職場にいる意味がないし、このブログで書いているように、色々なところで学ばせてもらって、ああでもないこうでもないどうすればいいと考え続けている意味がないと思ってしまうから。それは、単純にいま、自分が一番関わりたい、やりたいと思っていたことに、とても運良く、ありがたいことに関わらせてもらっているからこそ余計に強く感じている。今ここで闘わずしていつ闘うのだと。特に1ー2年目は目の前の仕事でいっぱいいっぱいになってしまっていて、仕事外では全く仕事に関することを考えたくないと思ってしまっていたが、3年目になって、ようやく気持ち的にも余裕が出てきて、自分なりにアンテナを張ってもっと勉強しようと考え、実際に色々と動き始められているいまだからこそ、まだまだ未熟だけど、未熟なりに自分の意見を持てるようになってきたと思っている。

だけど一方で、意見だけ偉そうにいえても、自分の振る舞いもその意見に一貫していて、言うだけでなく行動して思考錯誤していないと口だけの頭でっかちなしょうもない人間になってしまうのも確かで。
だけど闇雲にただ行動してしまっても結局は時間の無駄の方が多くなることもあるかもしれない。このジレンマが、なんとなく自身の身体が真綿で縛られてる感覚になっていたりする。

勉強ばかりしていてはダメだ。行動に起こさないといけない。行動ができない人はただの中途半端な人間である。


前田裕二氏の「人生の勝算」を読んだ時も思った。自分の中でコンパスと船を持てと。船とコンパスをフル活用して、とにかく自分の目指すべきところを念入りに丹念に見定める。そこに確信が持てたら、柱だということが決まったら、あとはその方向に向かって全力で取り組むのだと。


もう一度、自分の中のファシリテート側の自分を呼び覚まさないといけないと思っている。

一人よがりになっている自分を見直さないといけない。


時には表面が腐ることはあるかもしれない。でも根っこだけは腐らせるな。

花がうまく咲かないときもある。実がうまく実らないときもある。時には嵐で全て持って行かれる時もある。
でもそんな時でも、根っこが腐ってしまったら。土が腐ってしまったら(土が腐るか腐らないかは置いといて)。もう二度と綺麗な花を咲かせるチャンスも、美しく愛される実を実らせるチャンスもなくなってしまう。


自分自身の中にある核となる思考という名の根っこは、どんなに辛くとも腐らせるな。腐りそうな時は未来を見ろ。将来自分がそこで目を輝かせて働いているところをイメージしろ。ポジティブに捉えろ。


そしてやはり人に優しくあれ。人に寄り添える人間になれ。君とお茶をのみにきたのだよと言われる関係性を築いて行くことが求められる。そのために、自己を発信するのと同じくらいに、人の価値観を「聴いて、理解して、受け入れる」こと必要なのではないかと


少しずつ、少しずつ、すぐにできることではないけど、実績を積んでいくほかない。

そして初心を忘れない。初志貫徹。常に自分の状態を見直し、今の自分は大丈夫かを考える必要はある。

自分は、人の言葉を受け取ることが得意だったはずだ。その時の自分に今の自分を加えて、戻ってこい。


とりあえず本日はここまで

最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。

作品の「価値」とは -文化とアートと社会に関する思考録- _180621


作品の「価値」とは、どうやって測ることができるのだろう。

音楽や、映画、演劇、イラスト、絵本…。私たちの生活の周りには常に、数え切れないほどの「作品」が溢れている。その中で私たちは「欲しい」と思うものには、お金を払い、その作品を個人で鑑賞し楽しむ権利を得ている。

わたしたちが「作品」を欲しいと思うのは、その作品から、生きていくためのエネルギーを得ることができるからだ。エネルギーというのは、ある人にとっては、生活の中の癒しであったり、またある人にとっては、何かを始める勇気であったりする。

作品の創り手も、同じことが言える。わたしたち「受け手」が、その作品にお金を払うことで、創り手は、また新しい作品を創るために必要なエネルギーを得ることができる。ここでのエネルギーというのは、創り手が生活していくための本来的な意味でのエネルギーの意味もあるが、それだけでなく、自分の作品でエネルギーをもらっている人がいるということ自体に、作品を創ることの意義を感じられることであると思う。


創り手の作品から、わたしたちはエネルギーをもらい、同等の対価を払うことで、創り手もエネルギーをもらい、また新しい作品が生まれていく。


文化やアートは、受け手と創り手がいて初めて生まれる。


ここで言っているのは、決して誰にも観せていない作品を否定しているわけではない。1人で創り、1人で楽しんでいる作品であっても、実はそこに「受け手としての自分」と「創り手としての自分」がいる。創り手と受け手が必ずしも他者とは限らない。


では、受け手が払う「同等の対価」というのはなんなのだろう。

創り手が求める「同等の対価」とはなんなのだろう。



間違いなく頭によぎるのは「お金」である。それは間違いない。


むしろ、わたしたちが「同等の対価としてふさわしい額のお金」を支払うことではじめて、正当に作品からエネルギーを享受する権利を得ることができる。

それは今の社会経済における「価値や信頼」の指標が「お金」である以上、当然のことである。





ただ、もし、作品の創り手が、その同等の対価を「お金ではない何か」と考えるなら?

「価値や信頼」の指標が、お金とはまた別にあるとしたらどうだろう?




少し前の話題になるが、キングコング西野亮廣さんが、自身が出版した絵本『えんとつ町のプペル』を
インターネット上に無料で公開している。

大ヒット中の絵本『えんとつ町のプペル』を全ページ無料公開します(キンコン西野) - Spotlight (スポットライト)



このサイトの中で、西野さんはこう話している。

実は今回、この絵本を最後まで無料で公開したのは、とても勇気がいることでした。僕だけでなく、この作品に携わっているスタッフは、この絵本の売り上げで生活をしているからです。ただ一方で、「2000円の絵本は、子供が、子供の意思で手を出すことができない」という声も耳にしました。

たしかに、2000円は決して安くない値段です。僕は子供に届けたいと思うけれど、「お金」という理由だけで、受け取りたくても受け取れない子がいる事実。

だったらいっそのこと、「お金なんて取っ払ってしまおう」と思いました。『えんとつ町のプペル』を、お金を出して買いたい人は買って、無料で読みたい人は無料で読める絵本にしてしまおう、と。

せっかく生んだ作品も、お客さんの手に届かないと、生まれたことにはなりません。10万部《売れる》ことよりも、1000万人が《知っている》ことの方が、はるかに価値があると僕は考えます。


西野さんは、売れることよりも、「作品が多くの人に読まれ、知られていることの価値」を指標とした。


さらに、西野さん自身のブログの中でも、このように話している。

キングコング 西野 公式ブログ - お金の奴隷解放宣言。 - Powered by LINE

SNSで誰とでも繋がれるようになり、『国民総お隣さん時代』となりました。
ならば、お金など介さずとも、昔の田舎の集落のように、物々交換や信用交換で回るモノがあってもおかしくないんじゃないか。
「ありがとう」という《恩》で回る人生があってもいいのではないか。

もしかすると、『本』には、その可能性があるのではないか?

こういった思いから、この無料公開に踏み切ったと述べられている。




文化とアートで、人がつながる社会をつくれる。

関係資本をつくることが、これからの社会で、お金を稼ぐのと同じ、あるいはそれ以上に重要になる時代がやってくる。

西野さんは、人と人のつながり(関係資本)によって形成される人生、社会を作り出す可能性は、本に宿っているのではないかと考えたのだと思っている。

これもまた1つの「文化とアートで人がつながる社会」のカタチなのではないだろうか。




作品の価値に対して、わたしたち受け手は「同等の対価にふさわしい額のお金」を払って享受する。
それはすぐには変わらない常識であり、そのことを私たちは忘れてはならない。


ただ、作品の価値を通して、創り手と受け手に生まれる「つながり」や、作品から得たエネルギーで、受け手がさらなるエネルギーの創り手となっていくこと。


作品がお金を通じてやり取りされるだけではなく、作品を通して「つながり」が生まれ、広がっていくということが、その作品の「価値」として、お金と同じレベルの指標で捉えられるような社会をつくっていくことができるとしたら。


文化やアートというのは、より身近に、わたしたちの生活に溶け込んでいくものになっていくのではないだろうか。

観劇録 -ニンゲン御破算-_180620

観劇ウィーク、第3弾。

わたしの怒涛の3日連続の観劇録も、本日で一旦最終回です。
最終回でも変わらずに、思ったことをざっくばらんにつらつらと記録していきたいと思います。



6月16日、Bunkamura シアターコクーンにて、「ニンゲン御破算」を観劇してきました。



知人から「大人計画の芝居は面白い」と、ずっとオススメされていたので、その知人と一緒に観てきました。


3時間にわたる大作。それにしても、3時間とは感じさせず、あっという間に思えるほどに面白かったです。


時代背景が幕末なだけあって、当時ならではの言い回しで怒涛のように言葉が飛び交うのですが、物語についていく上で重要となるキーワードの部分はとても聞きやすかったなーと思ったのが印象に残っています。


そのため、はちゃめちゃに面白く、笑ってしまう場面が至る所で出てきても、それを楽しみながら、しっかり物語の本筋にはついていくことができたので、ああなるほど、これが実力派の演劇かあと、観劇スキルがまだまだ底辺なわたしでも納得しました。


演劇ならではの「ライブ感の面白さ」というのが、すごく詰まっていたなーって思いました。
舞台上であんなことができるのか!とか、こんな演出ができちゃうのか!とか、こんなのも使えるの!?使っちゃって(浸かっちゃって?)大丈夫なの!?という、度肝を抜かれるものがたくさんありました。

さらには、所々に見られるアドリブも面白く、常に体当たりな気迫が伝わってきました。


いい意味で、あまり考えすぎずに、率直に面白かったなーと思えたので、観に行けて良かったです。
また大人計画の演劇はぜひ観に行きたいと思いました。




あと、これは個人的なしょうもない話なのですが、ある意味一番熱かったかもしれません。


わたしは全女優の中で多部未華子さんがダントツで圧倒的に最も好きです。


そんな多部ちゃんご本人を直に拝見することができました。

さらに、ありがたいことに席に恵まれ、数十cmくらいの近さで拝見することができました。


えっと、この件については、全くもって言葉になりません(笑)理解が追いつきません(笑)
ただ、死ぬ前に絶対に叶えたい夢の1つが叶いました(笑)


正直なところ、あまりに現実離れした体験だから脳みそがついていってないのか、はたまた、演劇の面白さに完全に見入っていたから「目の前に多部ちゃんがいる」という事実にそこまで意識していなかったからなのか、理由は定かではありませんが、観劇後の今もまだ、実際に拝見できた実感がありません…。



それでも、嬉しかった事実に変わりはありませんが!



いやあ、、、とてもお美しかったですね…。





以上、観劇ウィーク、つたない演劇鑑賞録ではありましたが、いかがだったでしょうか?
ご笑覧いただけていれば幸いです。


ということで、本日はここまでで!

最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。

観劇録 -モダンスイマーズ『悲しみよ、消えないでくれ』- _180619

観劇ウィーク第2弾ということで、


6月11日、東京芸術劇場にて観劇してまいりました。



モダンスイマーズ『悲しみよ、消えないでくれ』

お仕事でもお世話になっている方がスタッフとして関わっていることもあること、芸劇でまだ演劇を観たことがなかったこともあって、せっかくの機会と伺わせていただきました。

妻を失った男が、
妻の実家に居候。
分かち合おう、悲しみを。
癒し合おう、悲しみを。
乗り越え合おう、悲しみを。
しかし妻の妹は男を見て思っていた。


「この男は違う。この男は、悲しんでいない」


そこは雪深い山荘ー。

(パンフレットより)



正直、終わった後は放心状態で呆然としていました…。
あまりの「感情」と「感情」のぶつかり合い、脳内が追いつかず処理できず、しばらく(いい意味で)もやもやとしながら帰路についていました。もやもやしながらも、でもなぜか後味はすっきりでした。



序盤から描かれる丁寧な人物描写によって、登場人物の関係性が見えてくる。同じ悲しみを分かち合い、励まし合い、癒し合うことのできる仲間達。しかし、少しずつ、少しずつ仄見えてくる、それぞれが隠し続けてきた関係性と、裏に隠し続けてきた感情。


少しずつ、少しずつそれが露わになっていく。雪深い山荘の中、不安定に保たれていた関係性の、感情の均衡が、ほんの少しのきっかけで音を立てて崩れて行く。隠された真実が次々と明らかになっていくとき、そこに現れるのは、それぞれの悲しみや傷みが飛び交う感情の洪水。一体彼らの感情を言葉で表すことが可能なのかどうかすらわからないほど、複雑で濃い感情が交錯する。


その時、どんな気持ちだったのか?今、どんな気持ちなのか?
あなたの気持ちが、自分の気持ちが、わからない。


「本当に、本当に、本当に、本当に、本当に・・・・僕だけが、悪いんでしょうか?」


全てが明らかになり、物語がフィナーレを迎える時、最後に生まれた「感情」はーーー








カーテンコールを迎えて20秒後くらいに、涙が出てきました。
こんなにも遅れて涙が出てくるような経験は初めてです。


脳内が、完全には処理しきれていなくともやっと最後まで追いついて、ようやく最後の感情を理解した時に、なんという、なんという悲しみと、もどかしさかと。


きっとそこに生まれた「最後の感情」は、決して純粋に湧き上がったなものではなかったと思うのです。当然です。なぜなら、そんな感情を純粋に持てるような真実はそこにはなかったから。



だけど、どんなに残酷な真実が、残酷な悲しみが目の前に訪れたとしても、その悲しみを共に分かち合える、癒し合える、乗り越え合える人がいないということこそが、人間にとって一番の悲しみなのかもしれない。

悲しみを乗り越え、前を向いていかなければならない。分かち合い、癒し合っていかないと、我々人間はとても、生きていくには耐えられないのだなと思います。





しかし、悲しみを乗り越えた先でも、「悲しみを乗り越えてしまった」ことがつまりは、自分の心の浅さなのではないかと、思うこともある。

それでも我々は、悲しみを薄めずに生きていくことはできない。


そういうことでしか生きられないこと自体が、実はとても悲しいことなのかもしれない。


悲しみという感情は、心が辛くなるものであると同時に、消えて欲しくないと願うものでもあるんでしょうね。





うーん、思い出すたびに「複雑な感情の洪水」に溺れそうになりますが、これはこれでクセになるかなと。

観れてよかった、出会えてよかった作品だなと思いました。






本日はここまで!
最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。

観劇録 -タバタバ- _180618

先週1週間(6月10日から16日)は、ありがたいことに3本も演劇を観に行く機会をいただきました。
わたしの中でこれを「観劇ウィーク」と勝手に名付けることにします。


せっかくなので、観劇録ということで、3本それぞれの演劇について、わたしなりに感じたことを中心にざっくばらんに書いていきたいと思います。


早速、観劇ウィーク第1弾の観劇録にいきたいと思います。






6月10日、日本NPO学会公開シンポジウムで上演された「タバタバ」を観劇してきました。
(そもそもこの日の主目的はこの作品を観ることでした)


目の前にある巨大な氷の塊。それをはさんで言葉を交わす姉と弟。

弟はただひたすらにバイク(氷の塊)を磨き、姉はただひたすらに、そんな弟へ「外へ出ろ」「私の恥」と、言葉をぶつける。

他者からの目に敏感な姉、何も気にせず好きなことをして日々を過ごす弟。

交わることのない言葉のやりとりの先に、隠れていた感情が、価値観が見えてくる。



自分と他者との間にも、初めは見えない巨大な氷があって、お互いにその氷を溶かし合うことから、関係づくりは始まるのかなって思います。


だからどんなに一方が溶かそうとしても、もう一方が溶かそうともしない間は、その氷を溶かしきるなんてことは難しいのでしょう。お互いに溶かしあって初めてお互いが見えてくる。


そして、きっと同じ氷でも、形や硬さの違いがあって、いとも簡単に溶かすことができる氷もあれば、お互いがどんなに溶かしあおうとしてもびくともしない氷もある。


氷は美しく透明だから、それがお互いの間に隔たっていることを、つい我々は忘れがちになるのかもしれない。時に「当たり前に届くだろう」と思って使う何気ない言葉も、実はその分厚い氷に遮られ、その言葉は曖昧であるほど届きにくくなっていることに気づいていない。透き通った氷の向こうには相手の顔が見えているから、自分の声が巨大な分厚い氷に遮られ、届いていないなんて思いもしないということがある。


言葉のすれ違い、思い違い、受け手と発し手の間に生まれる齟齬は、こうして生まれるのかもしれない。


我々は忘れてはいけないのでしょう、他人との間には、いつもそこに氷があることを。そしてその氷を磨き続けていくことが、お互いを理解していくことだということを。






こんな感じで、残りの2本の演劇についても、一個人の感想として、思ったことを書いていきたいと思います。


本日はここまで!

最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。

全力で生きているか。-日々の思考録- _180615

テレビ番組の「 another sky 」が、最近特に好きです。


その人が、何をきっかけにどんなことを考え、どうもがきながらこれまで行動してきたのか、その一端が丁寧に映し出されているからです。


非常に感化されやすい人間なもので、こういうのをみるといつも自分に問いかけてしまいます。


「全力で生きているか。」と。


同じようなことの繰り返しの日々じゃ、つまらない。
いや、つまらないだけでなく、どんどんと退化していってしまいそうな気がします。
実際に、同じことだけをずっと繰り返しているだけだと、脳機能に影響が生じやすいそうです。
(そういえばたしかに、普段は仕事上、文章を書いたり、文字を読んだりするようなことが多いからか、
たまに暗算とかをすると、脳の使っていない部分を使っているような感じがするような気がします。)




「全力で生きているか。」と自分に問いかける時、大体の場合は「なにか行動しているか」ということを基準にすることが多いです。

そんな時は、まず一番やりやすい「曖昧な気持ちの言語化」から行うようにしています。
もやもやもやと頭の中でぐるぐるさせてるだけでは、すごく勿体無いような気がしていて、そういう時はこうやって、とりあえず思いのままに思い浮かぶ言葉を吐き出すことがまず大事なような気がしてます。
そうして、吐き出した時に、さあどう動こうかと、こうなるわけです。



幸いに、今は2箇所ほど、勉強しに遠征してこようと申し込んだり、ほぼ意思を固めているものがあるのでいいのですが、こういう行動力は引き続き大事にしていきたいなと思います。

ただ一方で、頭でっかちにはならないように気をつけないといけないですね。
勉強したことを生かして何かに取り組んで試行錯誤してもがき始めるところまで来て、初めて「行動している」と言えるような気もしています。

そういう意味では、今の僕はまだまだ行動しているというようには言えないなと思うわけです。



ただ、何も考えずに日々を過ごしているわけではない、少しずつ自己への投資を始められるようになってきたというように、前向きに捉えられればいいのかもしれませんね。

自己投資できる時間も限られてます。背負うものが増えてきたら、そんな時間を確保することも難しい。
今でも少し遅いくらいかもしれない。少し焦っているくらいです。


楽観的ではない、でも決して絶望はしていない。これくらいの不安な中ででもまずは自分が信じること、いいかなと思うこと、アンテナが引っかかったもの・ことには躊躇わず突っ込んでみる。まずは今のモチベーションを維持していければなと思ってます。



余談ですが…

実は、この1週間で演劇を3本ほど観劇しています。なかなかここまでハイペースで観ることが無かったのですが、なかなかいい時間を過ごさせてもらっているなと思っています。
ただ、まだ感想がまとめきれてないまま、ここまできてしまいました…。サッとまとめてサッと発信できるほどのスキルを身につけていきたいものですね(^_^;)


ということで、明日その3本目を観劇してくるので、3日以内に、この1週間観た3本の演劇について、「観劇録」として、ブログ書こうかなと思っています。
(ただ、演劇を語るほどそんなに演劇の鑑賞スキルが高いわけではありませんが…)


この「〜日以内に、〜します」って、あえて外に宣言する手法、なかなか物事を継続させるのにいいやり方かもしれないって思い始めました(゚ω゚)


本日はここまで!

最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。

アートの貧困を考える -日本NPO学会 公開シンポジウム-より_180610

本日6月10日、日本NPO学会の公開シンポジウムに行ってまいりました。


30分ほどの短編戯曲作品「タバタバ」を観劇したのち、パネリストの方々による「アート/ソーシャルデザイン/NPO」というテーマにてパネルトークが行われました。

※タバタバの感想も別途ブログで書こうと思っています。本稿では主にパネルトークの内容から得た感想と意見を書きたいと思います(複数に分けるかもしれません)。なお、ところどころ聴き漏れや、発言された方の趣旨と、私の捉え方に若干のずれもあるかもしれません。あらかじめご了承ください。


ここで話にあがったことの1つに「アートの貧困」ということがありました。

例えば演劇を年4本厳選して観にいくと仮定した時、自分が面白いと思うもの、観たいと思う演劇は何かを探すためには、わざわざ劇場に出向いて、探しに行かなければならない。その環境が、アートが身近に溶け込みきれていない環境であるということを表しているのである。

演劇というものは、そのほとんどが劇場という造られたハコの中に出向いて、そこでしか観ることができない。演劇に限らず、本来であればもっと身近なところに溢れていて、創造されているものがアートであり、人々のその生活の中にもっとアートが溶け込んで存在することが正常なのである。ということだと思います。

文化やアートは「高尚なもの」という価値観は、たしかに今もなお根強く残っていることだと感じています。そして現実問題として、一定の経済的負担がかかることは確かにあります。

ただ、その状態が「当たり前」であるということに、私たちは疑問を持たなければならない。

前回の記事でも言ったように、文化やアートは、これからの社会を生きていくために必要となる「人とのつながり(関係資本)」をつくるきっかけとなります。
それだけではなく、他にも、文化やアートの持つ力としてあげられることがあります。
例えば、文化やアートに触れることで、自らの想像力と創造力を高め、自分自身という個性(アイデンティティ)を自覚していくことにつながります。

こういった、文化やアートに触れられる環境の有無で、得られる資本が変わってくるのであれば、なおさら、本来的には文化やアートは、もっと誰の身近にも溢れているものであるべきであり、劇場やホールにわざわざ足を運ばなくても、普段の生活の中で触れることのできるものであるべきなのだと思います。




ーーうまくまだ意見がまとまっていないような感じが見受けられるのですが、あえてまとまっていない感じも、思考録の1つということでご笑覧いただけてたら幸いです…!

今日はここまでにしておきたいと思います。

最後まで読んでいただいたことに、些少ながらの感謝をあなたに。